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出会いを「つながり」に育てるには
僕は板橋に住んでいた頃、町内会のえらいさんと仲良くなった。きっかけは、僕が深夜の地下鉄でその人に席を譲ったことだった。その人は席を譲られてしかるべきだと思われる年齢に見えたし、矍鑠(カクシャク)たる雰囲気はあったものの少々お酒も入っているようだったので、僕は柄にもなく席を譲ったのだ。おじさんは(おじいさんと呼ぶと起こられそうなのでおじさんと呼ぶことにする)しょうもない遠慮などせず僕の好意を素直に受けくれた。

僕はつり革を持ちながら座席のおじさんと向かい合うような形になって世間話をした。そのとき改めて見るとおじさんはネクタイをしているのに僕はノーネクタイだった。僕はなんだか失礼かなという気がしたので、上着のポケットに押し込んでいたネクタイを取り出してそれをすばやく結んだ。

僕としてはそのほうが落ち着いてお話しできるしな、という程度の理由でネクタイを締めたわけだったが、おじさんはそのことに「なんと今時にはめずらしい、すばらしい若者か」と感激してくれた。おじさんは町内会の会長をしているということを自己紹介して、僕を強引に居酒屋に連れて行った。(午前一時を回っているのにだよ、強引なおじさんだ)

その居酒屋は小さな店だったが、食材も腕前も良く焼き鳥がかなりおいしかった。飲みながら、僕はおじさんのいかにも江戸っ子らしいところに惹かれつつもあった。そして町内会という日常的でかつ謎めいた存在について興味を惹かれもしたので、僕はおじさんの話を根掘り葉掘り聞いた。僕はもちろん町内会という言葉を知っているし、それがたしかに存在しているのも知っていたが、それが実際にどのような組織でどのような活動をするものかについては全然知らなかった。おじさんの話は面白かった。おじさんはどのような立場でどこまで名士なのか、その日も国会議員と会ってきたところだということだった。

結局僕とおじさんは朝まで飲んだ。僕はおじさんの気っ風のよさとその人格の成熟に圧倒されるところがあったので、帰り際にお礼ととともにこう伝えた。「僕をすばらしい若者と言ってくれましたけど、それを言うならおじさんはすばらしい年寄りですよ」。そのように伝えると、おじさんは照れながらもカラカラと笑った。

それ以後、僕は給料日前にお金が尽きるとおじさんにおごってもらうことになった。まったくもってお世話になったので僕はおじさんに足を向けて寝られない。(僕はあまりにも人の世話になりまくっているので、もう足を向けてよい方角が残ってないけど)

そのような、僕とおじさんの出会いがあった。ここでは、その出会いが「つながり」にまで育っていったことを注目してみたい。

人との出会いがあったとして、誰もがその出会いを「つながり」に育てていけるとは限らない。むしろ、出会いを「つながり」に育てるのが苦手な人が随分多いような気がする。奇妙な話だ、僕たちは携帯電話とメールというツールを手に入れたのに、「つながり」を作っていくのがどんどん下手になっていっているような気がする。

「出会い」を「つながり」に育てるにはどうすればいいか。それは突き詰めればこういうことになるだろう。

・興味を持つこと
・興味がありますと伝えること

この二つができれば、「出会い」を「つながり」に育てることができる。逆に言えば、「つながり」を作るのが下手くそな人は、「興味があります」と伝える度胸を失っているか、あるいは何もかもに興味を失っているんじゃないかと思う。もしそうだったら、それはあまりいいことじゃないので気をつけたほうがいいかもしれない。

ちょっとまじめな話をしよう。僕たちの「つながり」、友人関係や恋人関係は、そのほとんどが共同体の後押しがあって生まれている。一番典型的なのは、小学校での生活とかだろう。小学校では毎日同じクラスメートが登校してきて毎日同じ席に座る。これだけでも無条件に仲良くなってしまうと言ってもいい(こういうのを心理学用語で単純接触原理といいます)のに、さらに同じメニューの給食を班ごとに島を作って食べたりするのだ。これは[同じ地区→同じ学年→同じクラス→同じ班→同じ食事]という多重の共同体で、中にいる人間に半ば強制的に「つながり」を持たせる。(だからここでイジメが発生したら残酷だ)あ、さらに加えるなら「同じ制服」というのが加わる場合もあるかな。制服というのは案外強力なものだったりする。だからファミレスとかファーストフードの店員同士は妙に仲が良い。

さてそんな感じで僕たちは小学校から高校なり大学なりまで、「家族」と「学校のクラス」で過ごすわけだ。そして企業に就職するとまた「職場」という共同体に入ることになる。同じ会社の同じ支部、同じ部の同じ課に所属して、同じ時間に出社して同じ案件に取り掛かる。

ところが往々にして、職場における「つながり」には殺伐としたものが入ってしまう。あるいはその年齢や精神性、立場などが違いすぎたりしてしまう。そのような場合はそこに友人や恋人を見つけ出せないため、どこか別のところに友人や恋人を探していかなくてはいけない。そしてそうなったときに改めて気づくのだ。僕たちは共同体の後押しなしに「つながり」を作っていく訓練をまったくしていないということに。

学校などの強力な共同体にいるとき、あまり意識せずとも友達との「つながり」や恋人(または恋人候補)の「つながり」を自然に手に入れることができる。ところがその共同体でうまくいかなかったりするとピンチだ。何しろ僕たちは、共同体から離れて「つながり」を作っていく方法を全く知らないのだから。

例えばこんな話があったとする。友人が結婚して、あなたはその披露宴の立食パーティに行くことになった。ところがそのパーティが平日だったこともあって、会場にはあなたの見知った人は一人もいなかった。そこであなたは、会話もせずに一人で食べ続けるというのはアレなので、周りの人たちと二言三言だけ会話を交わした。さてこのような場合、そこで会って会話した人と「つながり」を作ってゆけるだろうか?僕はほとんどの人が、そのようなシチュエーションでは「つながり」を作れないのじゃないかと思う。それどころか二言三言でも会話を交わせる人というのが、そもそも少ない方なんじゃないかとも思う。このようなシチュエーションにおいては、多くの人が一人で黙々と食べ続け、「居心地悪いから早く帰りたいなぁ」と思ったりするんじゃないだろうか。あるいはせいぜい、メールアドレスを聞き出して、いちおう挨拶程度のメール交換をしたものの後は音沙汰なし、そのあたりが一番リアルなところだろう。全く僕たちは共同体に馴染みきっていて、そこから外れては「つながり」を作る方法を知らないのだ。共同体の中でなら、会う前から結婚を意識した「お見合い」なんてものができるのに、共同体がないと一緒に昼食を持つ機会の一つも作れなかったりする。

そのような状況の中で、僕たちが共同体の後押しなしに「つながり」をつくっていこうとするなら、やはり「興味を持つこと」「興味があると伝えること」、それしか方法は無いように僕は思う。そして僕たちは、そのように振舞う訓練を自分なりに積んでいかなくてはならないのじゃないか。最近はどうも、共同体のあるべき力が弱まってきていることもあるわけだから。

あなたは何に興味があるだろうか。履歴書の趣味の欄に読書と音楽鑑賞と書く人は多いから、ここでは読書と音楽に興味があると仮定しよう。(そういえば、趣味の欄に読書と音楽鑑賞と書く人は、実のところテレビ観賞と睡眠が本当の趣味だったりする。そういうところでウソをつくのは悪い風習だ)

さてあなたが読書に興味があったとして、僕がこのように言ったらあなたはどう反応するだろう。
「大江健三郎の『洪水は我が魂に及び』がサイコーでしたよ。特にあのラストシーン!」
なんとなく想像してしまうのだが、一般的にはこういう反応が返ってくるのじゃないか。
「・・・ふーん。大江健三郎って、どんな人だっけ・・・。あんまり興味ないな。あたしは『セカチュー』が好きなのに」
次に僕が、読書については反応が薄いということで、音楽に話題を移したとする。
「プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』、あの第二幕のオープニングがサイコーなんですよ!クリスマスの雑踏がこうドーンと・・・」
この場合の一般的な反応も、こんなものだと思う。
「・・・オペラ?クラシックには興味ないなあ」
またしても反応が薄く、僕はちょっと凹むだろう。ここで攻守交替ということで、あなたがこう言ったとする。
「オレンジレンジは聴いてないですか?」
僕はこう応える。
「聴いてないな、もうおじさんだから・・・。オレンジレンジ、かなり流行ってるから名前は聞くね。どの辺がいいの?」
この場合の一般的な答えは、きっとこんな感じだ。多分、口に出しては言わない。
(どの辺が、って言われてもな・・・。聴いてていいなって思うだけだけど)
そして「つながり」の生まれぬまま会話は終了する。(きっとお互い疲れてるだろうな)

もうわざわざ言わなくても分かってもらえると思うが、このような場合、実のところ読書にも音楽にも興味なんか無いのだ。興味の源泉になる好奇心とか想像力とか注意力とかが冬眠してしまっているから、自分と違う視点や感性を持っている人と積極的に関わる気になれない。それどころか、うざったいとすら思うかもしれない。

興味があるという状態は、もっと積極的で力強いものだ。それはこういう場合を想像すれば了解されるだろう。あなたに好きな人がいたとする。そして友人が、「あたしあの人とこないだ深夜のモスバーガーでばったり会ったよ」と言う。そのときあなたは、こう言うだろう。「ウソ!?誰と来てた?何人で来てた?何食べてた?それって何時ごろ?」。あなたが彼に興味があれば、そのような反応になる。それが「興味がある」という状態だ。積極的で、力強い。(洗いざらい話すまで帰らせてくれなさそうです)

あ、一応、先の例についてこのような場合も考えておこうか。興味は無いけど、感性が同じだった場合について。

「オレンジレンジ、いいですよね」
「あ、うんうん。あたしもそう思う」
「アルバム買っちゃいましたよ」
「あ、あたしもそうだよ」
「何曲目が好きですか?」
「うーん、二曲目と六曲目かな」
「あ、わたしも二曲目好きです。あとわたしは四曲目と八曲目が好きです。なんかイイですよね」
「うんうん」


このような場合、どうなんだろうか。僕はあまりこういう状態にならないのでいまいちピンとこないのだけど、それでもやっぱり「つながり」にはなっていかないんじゃないかと思う。会話は弾むけど、話題の尽きたところで「じゃ」と言って終了、その場限りで終わってしまうそうな気がする。メール交換を始めたら、それもただのメル友に納まってしまうんじゃないだろうか。その中で深い共感が育てば、また別だけど・・・。

そんなわけで、色々と言ってきたが、僕としては「出会い」―――共同体の後押しの無い「出会い」―――を「つながり」に育てていくには、やはり「興味を持つこと」「興味があると伝えること」が第一の方法なんじゃないかと思う。そしてその興味は、好奇心とか想像力とか注意力とかが冬眠していると湧いてこない。同時に、興味がってもそのように振舞うには訓練が必要なんじゃないかとも思う。

さて僕たちはそんなこんなで大変なわけだが、具体的にはどのようにしていけばいいだろうか?僕として思うに、まず自分の興味、興味を持つ心を意識的に活性化していかなくちゃならない。それがスタートラインだし、それを意識するだけで物事の見方はけっこう変わってくるはずだ。

興味は「湧いてくる」という表現をされるけど、僕は興味というやつはある程度自分で掘り起こさないと湧いてこないものだと思う。例えば健康な若い男性が、夜中にムラムラした気持ちと寂しさが湧いてきて、アダルトビデオを借りにいったりインターネットのアダルトサイトを見たりするのは自然発生的だが、興味というやつはそこまで自然発生的じゃない。要するに、興味を持つには少々努力がいるのだ。それは極端な例を考えれば分かる。例えば数学者で「整数論」とか「素数論」とかにハマる人がいるけど、そんな「興味」が自然発生するわけが無い。本人の自覚はともかく、ある程度の努力が下地にあって、そのようなものに強い興味を持つようになったに違いないのだ。

意識的に「興味」を持つように努力することが必要だ。そしてその後は、それをコミュニケーションの中でぶつけていく度胸を持たなくてはならない。度胸を持つには特に方法が無いので「度胸を持て」としか言えないけど(一応、「『自信がない女』のあなたへ」のコラムご参照)。

そして、興味と度胸が整ったら、あとはそれをぶつけていくのに慣れていけばいい。「興味を持つこと」「興味があると伝えること」、それを実行しているうちに「出会い」をつながりにしていく方法がおのずと身についてくる。具体的な会話にすれば、こんな感じだろうか。

「大江健三郎の『新しい人よ目覚めよ』の「魂が星のように降って、足骨のところへ」の一節がサイコーで・・・」
「そんなこと言う人に初めて会いましたよ。その大江さんの本は、そんなにカンドー的なんですか?なんとなく難しい本書く人だってイメージでしたけど」
「モーツァルトの『魔笛』の中に出てくる男性二重唱はもうトリハダもので・・・」
「音楽の基本はトリハダがくるかどうかですよね!でもわたしクラシックって聴き方わかんないんですよ。何かCDジャケット見てもどれがいいのか見当つかないし」

どうだろう、このような会話を示しただけで、「つながり」へと向かっていく予感がしてこないだろうか。
「出会い」をどのようにして「つながり」へと育てていくか?それも、共同体の後押しが無い中で?僕としてやはりそれに答えるに、「興味を持つこと」「興味があると伝えること」としたい。冒頭の、板橋の町内会長との話にしてからが、そのような理由で成立しているのでもあるから。僕が柄にもなく席を譲ってネクタイを締めたこと、おじさんが町内会と名士という世界を紹介したこと、そんな極めてささいなモチーフからでも「出会い」は「つながり」に育ちうるのだ。興味を持つことと、興味がありますと伝えることによって・・・。

最後に、僕とあなたがこんなふうに「つながり」を育てていければいいなという空想を示して終わることにしよう。まあこれは、空想というよりは妄想に近いものだけど。

「『英雄ポロネーゼ』は聴いているだけで何か誇り高い気持ちが湧いてくるんだよコレが!まるでピアニストが叙事詩を語る吟遊詩人みたいで・・・」
「いいですねぇ、そういうコンサート、ぜひ行ってみたいですよ」
「じゃこんど、一緒に行くか?」
「うーん、でも・・・」
「なに」
「わたし、お金ないんですよ、ね〜?」
「・・・なんだテメー、実は策士じゃねえかよ」
「いえいえ、そんなつもりは、まったくないですよ?」
「んだよ、ったく、・・・いいよ、ただし一回目だけだからなオゴるのはよ」

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