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彼の気持ちがわからない、あなたへ
ずいぶん昔の話になるが、僕はカヲリという女に恋をしたことがあった。
カヲリは徳島の出身、背が低く、目が大きな女だった。カヲリはその当時の年齢としてもいささか幼く世慣れぬところがあって、コンサートスタッフのアルバイトの面接に落ちたといって泣き出したり、サイズの合っていない短すぎるスカートを穿いて僕に会いに来たりすることがあった。まだ男と寝たことがなかったからか、全体的に苦笑したくなるような野暮ったさがあり、大きめの胸も白い二の腕もいまいち色気を引き立てていなかった。背が低すぎたために美人という印象を持ち得ない女だったが、目蓋の上にブルーのグラデーションをのせると、表情が突然やわらかいもののように感じられるようになる。僕はその時の彼女が好きだった。

僕は二回、彼女に交際を申し込んだことを記憶している。二回が二回とも、カヲリとしての回答は保留される形に終わった。カヲリは確か、意味ありげにはにかんでウーンと唸っただけだったはずだ。彼女が何を考えているのか、僕のことをどう思っているのか、僕にはわからなかった。その時もわからなかったし、今になってもやはりわからないままだ。彼女はいつの日か、僕に一言も告げずに徳島の実家に帰ってしまったのだったが・・・。

人の気持ちは、果たしてわかるものなのだろうか。わかる部分もあるかもしれないが、わからない部分のほうが大きいのじゃないか。僕はそう思っているし、これからもそう思っていくつもりだ。相手の気持ちを憶測ばかりしていると精神が虚弱になってしまう、僕はそれがイヤだから。もちろんそれでも、相手のことをより深く理解したいとは思うわけだから、そうだな、言葉の交換にはより熱心になりたいと思うわけだな。

「彼はわたしのことをどう思っているのでしょうか?」

僕はこのところ、そのような質問形式で相談を持ちかけられることが多い。その質問にはしばしば、「男心がわかりません」というような嘆きが付け加えられている。そのように問いかけられても、僕は僕以外の男の持っている男心についてはよくわからない。女性は女性であるというだけで、すべての女性の女心がわかるだろうか。僕はわからない、巨乳にこだわる男の男心がわからないし、一度デートの誘いを断られただけで絶望する男の男心もわからない。

人の気持ちについて質問されたとして、客観的だからこそ推測できる部分、経験によって推測できる部分というのは確かにある。しかしその推測があったとしても、それはあくまで推測でしかなく、しかも肝心なところの機微についてはまったくわからない。たとえば、メールを出したけれども返信が来ないということがあったとして、その理由、その相手の心の機微についてはわからない。それを考え出すとそれこそ推測しうる理由は僕が考え付く限りでも百万通りはあるだろう。レポートを書かなくちゃいけないのに虫歯が痛くてはかどらずにイライラしていたから、という場合もあるだろうし、先輩に連れられて風俗に行ったものの後になってうしろめたく感じられてきたから、なのかもしれない。そんなことは、考えてもキリがない。相手の気持ちを推測しようとして、どれだけデータを集めて入念に穿って推測したとしても、それはせいぜい競馬新聞の予想欄程度の精度しか持ち得ないだろう。競馬新聞を買うのは悪くない、しかしそれを鵜呑みにしても競馬には勝てない。そういう予想というのは外れても当然のものとして、参考程度に留めねばならない。そんなこと、誰でもわかってることだろうけど。

さてここで、僕として思うところなわけだが、僕に問いかけてくる人たちは、相手の気持ちがわからないからこれからどうすればいいかわからない、それについて「これからどうすべきでしょうか?」と相談してきているのではないだろうか。それはそうだな、たとえばこんな場合だ。―――二回デートをした、キスをした、彼に今のところステディとしての女性はいないということがわかった。しかし、ある日突然、彼の態度が冷たくなった・・・。 このような場合、当人の女性にとっては、予想していた展開―――というより、期待していた展開―――にならなかったため、混乱に陥るわけだ。彼の態度の豹変は想定外のことであるため、自分の今いる状況がわからなくなる。彼にとって自分はイイ感じの女なのか、それともただの友達としての女なのか、それともからかわれているだけの女なのか。そこで、状況の核となる「彼の気持ち」、これを知りたいと思うようになるわけだ。彼の気持ちがわかれば状況が把握できる、状況が把握できればこれから自分がどのようにしていくべきか決定できるということになる。不安なまま自分の行動を決定できないというのは苦しいことだから、「とにかく彼の気持ちを知りたい」、この心境については誰しも共感できるところだろう。 しかしだ、改めて腰を据えて考えてみれば、この不安な状況、相手の気持ちがわからないという状況を、最終的に僕たちは受け入れていくしかないのじゃないか。僕には、そう思われてならない。先に言ったように、相手の気持ちを精密に推測してみようと試みたとしても、それは競馬新聞のようなアテにならない推測にしかたどり着けないのだから。そういえば、僕の記憶にある僕とカヲリの間にあった最後のシーンは、明け方、無人になった自転車置き場だった。カヲリはキスをするのが好きな女だったから、僕とカヲリはお互いの唇の粘膜が痛くなるまでその自転車置き場でキスをしていた。その日カヲリは、どのような心境の変化があったのか、初めて僕のキスを首筋に受け入れてくれた。それによってカヲリは思いがけず大きな声で女としての反応を見せたが、初めてのことだったのか、カヲリ自身がそれに一番驚いたようだった。カヲリが連絡をくれなくなったのは、その翌日からのこと。もしカヲリの気持ちについて解き明かしてくれる人がいるのなら、僕はぜひ問いたい。カヲリは僕のことをどう思っていたのですか?

相手の気持ちは、わからないことのほうが多い。それは不安な状態だが、その不安の中で自分がどのようにしていくか、それが本当に大事なことだ。相手が自分のことをどう思っているかわからない中で、状況の見えない中で、自分の行動を決定していく。それは考えてみれば当たり前のことかもしれない。ポーカーゲームで、相手の手札をこっそり覗き見てやろうとする奴ほど無礼な奴はいないのじゃないか。相手の手札がわからないと不安でどうしたらいいかわからない、そんな奴はポーカーをやるべきじゃないだろう。それは僕たちが生きていく全般においてそうだ。娘の日記を覗き見てコミュニケーションを潤滑にしようと考える父親は、虚弱で恥知らず、軽蔑されるべき父親だ。

さて、相手の気持ちはわからない中で自分としての決定をしていくとして、その場合、何をよりどころにしてその決定が行われるだろうか。それはどう考えても、自分の中にあるよりどころ、考え方とか、恋愛観、人間観、おおげさに言えば思想とかいうようなところにたどり着くしかないだろう。具体的にいえば、彼の態度が急に冷たくなったとして、それでもこちらからは愛想のよい振る舞いを続ける、そして彼の態度が氷解するのを待とうとする考え方もあるし、あるいは一ヶ月程度はいったん後退を認めて、それから再接近を試みてみようとする考え方もある。その考え方は千差万別で、どれがよいとは単純に言えない。熱烈すぎてほだされてしまったというような成功例もあるし、熱烈はいいけど嬉しさよりうざったさが勝ってしまったというような失敗例もある。だから、どういうのが良いとは言えない。ただもちろん、そのような考え方にも種類によらず洗練されているか否かという部分はあるから、僕たちはその洗練については熱心でなくてはならないだろう。僕たちは過去の経験から、自分の考え方の洗練されていないところを反省し、他の人を観察しては、その人の洗練されているところを盗もうとする。そのあたりの積み重ねで、その人が恋愛を上手くやれるかどうかということが決まってくる。

自分の中にそのような「よりどころ」を持ちえた人、そしてそれがある程度洗練されている人を、僕たちは陳腐な言葉で「自分のある人」と表現し、自然に尊敬を払うようだ。逆に自分の中によりどころのない人は自分以外のところによりどころを探そうとするわけだが、僕たちはそれを「自分が無い」とか「依存」とか、そういう表現をして軽蔑する。僕が思うに、「彼の気持ちがわかりません」と僕に向けて問いかけてきた人たちはその「よりどころ」を模索しようとしているところなのだろう。そしてその中の一部の人は、自分の中によりどころを形成しはじめて、成長へと向かうのだと感じられる。成長を遂げた人は、多分周りの人間からも、オトナになったよねというような評価を受けているのではないだろうか。逆に、何か他によりどころになるものがあるはずだと競馬新聞を買いあさり続ける人は、実年齢が上がるにつれて、コドモだよねというように周囲から思われるようになるのかもしれない。それをそれとしてはっきり言ってくれる人はなかなかいないから、口に出してはせいぜい、「○○ちゃんは、変わらないよね」という程度に収まるかもしれないけれども。

彼はわたしのことをどう思っているのでしょうか?その問いかけには、残念ながら彼本人以外誰も回答できない。不安になるのはどうしようもないとして、その不安の中で自分の考え方について再確認し、それを洗練していくしかない。どうすればいいでしょうか?その問いかけについては、僕は僕の持っている考え方、僕の持っている「よりどころ」しか示すことはできないわけだが、それでよければ喜んでお話しようと思う。それが洗練されているなどと、誤解はしないでもらうという前提で・・・。

僕の前からカヲリがいなくなってから、二ヶ月ぐらい経ってのこと。カヲリの女友達から、なぜカヲリが実家に帰ったかについて、事情めいた話を聞いた。カヲリは徳島の、古くからある地主の家系の一人娘で、四歳のころから親が決めたいいなずけがいるのだということだった。そのカヲリの女友達は、一通りの事情を感情を交えずに話した後、何かカヲリに伝えたいことがあったら伝えておくよと、僕とカヲリの関係をあらかた知っている様子で申し出た。

カヲリは僕のことをどう思っていたのだろうか?それは結局僕にはわからなかったし、そのことについてはその友達も何一つ聞かされていないようだった。もとより、友達に話せるぐらいなら僕に直接話しただろう、彼女は怖がりだったが、卑怯なところの無い女だったから。僕として最後にカヲリに伝えておいてくれとお願いしたのは、ごくつまらないこと。目蓋にのせたブルーのグラデーション、あれは良かった、似合ってたよ、ということだけ。僕は、カヲリという女に恋をしたのだった。ずいぶん昔の話だけれども。

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