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オトコがオンナを好きになるとき

好きという気持ちは説明できない。それこそ例えばネコがかつおぶしを好きな理由さえも説明できないわけで、それが人が人を好きになる理由なんて高度なものになればますます説明できない。お手上げである。

まあそれでも、お手上げと言い切ってしまってはコラムにならないので、少しは考えることにしようか。一応、好きという気持ちは解析不能だということは前置きできたということにして。ここで改めて僕は確認するけど、解析不能というのが好きという気持ちの本質ではあるだろうな。解析できないからこそ、好きという気持ちは大切で尊厳のあるもののだと思う。そしてそれだけに、その好きという気持ちに真摯に向き合い取り掛かるとき、人は輝くのだろう。ここがまさしく本質なのであって、この本質を見落としていたらきっと全てはうまくいかない。それは、この世のコトワリみたいなものだな。


***


さて、いよいよ本題。「オトコがオンナを好きになるとき」。

これはぶっちゃけ、「どうすれば彼はアタシを好きになってくれるか」ということだな。できるだけ、そこからズレないように書くことを心掛けよう。

彼に好きになってもらうとして、基本はやはり自分から好意を伝えていことだ。まず、相手の目を見ること。距離(物理的な)を縮めること。相手の名前を呼ぶこと。時には厚かましくお願い事をすること。バランスよく自己開示すること。その背後で動く心理現象は、単純接触原理、親和欲求、好意の返報性、パーソナルスペース、自己承認欲求、不協和理論、などなど。さらにここに色気をプラスアルファして、一方では告白という方法を温存しておくということだな。このあたりは、僕のサイトを読み込んでくれている奇特な方は十分ご理解されているところだろう。(わからない人は、マニヤになるまで読み込んでください)

自分から好意を示し伝えていって、相手に好意が芽生えるのを期待する。これが基本であって、これはどうこねくり回しても本質として変化はしない。この基本の部分について尻込みしてしまう人、たとえば「人見知りする性格なので相手の目を見るのが苦手です」というような人もいるようだが、これはそのように尻込みされても代替策が無いものだ。僕個人の考えとしては、この基本の部分ができるようになるというのがオトナになるということだとも思うので、僕自身尻込みしないよう努力しているところでもある。

(僕なんかの場合、「人見知りする性格です」なんて言ったら、キャラ的にも年齢的にもキモチワルイ奴になってしまうしね)

まあこのあたりは、常識的な考え方として、それなりの年齢になったらそれなりに苦手を克服しないとダメだよ、ということにしておこう。「納豆が苦手」という人は一生そのままでいいが、「人に好意を伝えるのが苦手」という人は一生そのままではいけない。それはあなたの個性でもなんでもなく、単なる未熟です。そのままで怠けてると、人生でかなりソンをします。多分。

さて、基本はそのようなものだとして、今回はその先を考える。

勘のいい人は気づいていると思うのだけれど、ここまで話した基本の部分については、あくまで「好意」の交換についての話だ。そして、「好意」と「好き」は似て非なるもの、決定的な隔たりのあるものである。冒頭に、好きという気持ちは非論理的で頑固なものだと言ったが、まさしくその点において「好意」と「好き」とは峻別される。「好意」はある程度論理的で融通の利くものだが、「好き」はそうではない。今回は、このあたりのことについて考えることにしたい。

具体的な話として、たとえばこんなシチュエーションを考えてみる。

―――知り合って一ヶ月ですが、ちょくちょくメール交換をするようになりました。こちらから誘えば食事にも付き合ってくれますし、それなりに話も弾むのですが、そこからいまいち進展しません。彼は結局、その気が無いということなのでしょうか?このままでは、フラれるのを覚悟で告白するしかなさそうです。

我ながらと自画自賛したくなるぐらい、いかにもありそうなシチュエーションの設定である。さてこのようなシチュエーションにおいて、実際のこととしてどうすればいいだろうか?このシチュエーションは、先に示した言葉を使って表現すれば、彼として「好意」を持ってくれてはいるようだけれど、「好き」ではないようだということになるだろう。このような、「好意はあるが好きとはいえない」というような状態は実際よくあるわけだが、そのようなとき、進展へ導くための考え方の指針が何かあってよいはずである。ここで、告白しちゃえと言うのは簡単で明瞭な方法だが、それは僕として考えるところ、あまり知恵のある方法だとは思えないというわけだけれど・・・。

さて、このことに答えるに、僕は「崩し」という考え方を取り入れることにしたい。

崩しというのは柔道の技術で言うところのもので、技に入る前に相手の体勢を崩すということだ。一本背負いに入る前に、相手をたとえば斜め前方に「崩す」。あっさりと決まったように見える一本背負いにも、素人目には見て取れないその「崩し」が先行しており、それが技を技として成立させる要件となっているのである。

先に示したような行き詰まりのシチュエーション―――「好意」はあるが、「好き」に至らない状態―――において必要なのは、この「崩し」という部分なのではないだろうか?それは情緒的な言葉を用いて、「グラっとさせる」と言い換えても差し支えないかもしれないけれども。

「好意」は論理的であり、「好き」はそうではないと言った。であれば、ここで必要とされる「崩し」は、相手を論理的な体勢から非論理的な体勢へと崩す、ということだろう。相手の心理的な体勢を、非論理的な方向へと「崩す」。それは端的に言い換えれば、相手を「動揺」させるということかもしれない。もちろんその「崩し」とて、裏目に出れば相手のガードをより堅固にさせてしまうこともあるのだけれど、もうそれはそれとして覚悟し、その一歩を踏み込むしかないのだと、僕には思われるのである。

ここでこの「崩し」という概念を取り込むと、僕自身もいろいろと発見として思い出されることがある。僕が誰かを好きになったときのこと、また僕が誰かに好きになってもらえたときのことを思い返せば、確かにそこには「崩し」に相当する部分があるのだ。

僕のことを好きになってくれた女性のこと。彼女は僕よりずいぶん若くて、身なりも振舞いも洗練された、いかにもモテそうなオンナだった。僕はその彼女をデートに誘うに、まあとんでもなく不躾(ぶしつけ)なメールを送ったのだ。

―――ケーキ食いにいくから、五時に駅まで来れるか?

後に彼女自身から聞いたところによると、このメールを受け取った彼女は、いつの間にアタシがアンタとデートすることに決まったのよと呆れつつ、また少しはさすがに戸惑いもし、ある意味スゴいよこの人はと、苦笑しながらも興味を持ってくれたのだということ。

これは、僕の送ったメールは常識的に考えればサイアクなものだったが、それが運良く「崩し」として作用したのだということになるだろう。この崩しが無ければ、僕と彼女の関係はきっと進展しなかった。

(にしても、こうして手口をバラしていくたびに、僕はこの先がやりにくくなるんだよな。まぁ、いいけど)

一方で、僕が好きになった女性のこと。彼女はある日、僕に会いたくなったといってくれて、片道二時間をかけて深夜に僕に会いに来てくれたのである。僕はそのことに単純に喜んで、素直に自分の気持ちを伝えた。僕の気持ちを彼女はすんなり受け入れてくれて、僕と彼女はろくに会話もしないままに肌を重ねることになった。

ところが、である。お互いの気持ちを体でぶつけあった後、幸せな余韻の残るそのベッドの上で、僕が二回目のこととして彼女を求めると、彼女はそれをきっぱりと拒否したのだ。

―――二回目は、一回目より、むりやりって感じになるじゃない?一回だけに、しとこうよ?

僕は彼女の言葉に、ほんのわずか鼻白みはしたものの、そうか、一回でいいんだよなぁと、奇妙な納得をさせられた。そして、深夜に時間をかけて会いに来てくれたことと合わせて、僕は彼女の不可解さの混じるまっすぐな態度に、いつの間にか強く惹きつけられてしまっていたのだ。

これも、今になって考えれば不思議なことだが、彼女が二回目を無言で受け入れていたとすれば、僕としての彼女に対する思い入れは深くならなかっただろう。僕は彼女の拒否によって彼女のことをより好きになってしまったわけで、これは彼女の拒否が「崩し」として働いたということである。

(かといって、みんなして僕を拒否ってからかわないように。僕はわりとカンタンに崩れちゃいますので)

こういったシーンを思い返せばキリがないわけだが、とにかくこのようなシーンにおいて、「崩し」は起こっているのである。表面だけ見れば、「シツレイなメールを送ったらうまくいった」「二回目のエッチを断られたから好きになった」ということになり、これはまったく非論理的な現象だ。しかしこの非論理的な方向への崩しが、関係を「好意」から「好き」へと引き上げるのである。


***


「好意」と「好き」は別物であって、「好き」に至るためには「好意」の積み重ねの上からある種の跳躍を要求されるものだ。僕の感覚としては、「好意」は接近であって「好き」は結合であると、そのようなイメージもあるのだけれど、とにかく好意の積み重ねだけでは「好き」には至らないということは確かなようだ。「好意」から「好き」への跳躍は、非論理的な方向への崩しをかけること、端的には相手を動揺させるというようなことが必要なようである。

これが、さしあたり僕としての「オトコがオンナを好きになるとき」についての答えとなる。先に示した行き詰まりのシチュエーションにおいても、それを打破するものがあるとすれば、やはり論理的でない方向の「崩し」ということになるのではないかと思うのだ。逆に言えば、平和な好意の積み重ねだけにとどまり、そこに切羽詰ったものや包み隠せぬ動揺といったものが少しもなければ、その「好意」は「好き」の段階へと進まないということでもあるだろう。僕たちは基本的に臆病であるから、このリスクを伴った「崩し」の仕掛け、それを無意識に避けたり、あるいはそのような交流の存在そのものを、すっかり忘れ去ってしまったりするのだけれども・・・。

さて、このような「好意」と「好き」の違いがあり、そこを跳躍するための「崩し」があったとして、あなたはどのようなことを思われるだろうか。あなたが恋焦がれる彼がいたとして、彼との関係がいまいち進展しない、お互いそれなりに好意はあるもののそこから先へ進まないといったような、先に示したシチュエーションに近似した状態であったとしたら、このことについて考える価値はあると思う。

時には、常識から外れること、好意のルールからさえ外れることが、大事なこともあるのだ。「崩し」などというような散文的な言いようをしたけれども、実のところここが恋愛の核であるように思う。その非論理的な部分は、あなたの本質が表れるところだろうから。崩しと言っても、そこに力強さが伴わなければ何の意味もないのであって、そこまで含めて相手を崩そうとするならば、あなたはあなた自身の非論理的な部分、すなわたあなた自身の本質について、真剣に向き合うことが必要になるはずだ。あなたがあなた自身の本質と向き合い、それを好意のルールを無視さえして相手に投げかけるとき、それは相手の心を崩すものとなるだろう。

男が女を好きになるのは、好意の積み重ねがあり、そこからその好意のルールさえ越えて、あなたの本質をぶつけられたときなのだ。

このことが、いつかあなたの役に立てばいいと思う。



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